ChatGPTが示したお題に生身で答えるシリーズの4回目。
今回のお題は「自然とテクノロジーの共生」です。
んー、何か「意識高めの企業スローガン」みたいな言葉ですね(笑)
「自然」の対義語として挙げられるのは一般的に「人工」「人為」といった、人間が意図を持って為した結果という語になります。
一方、人間も他の生物と同じく、地球の環境下で進化を重ねて来た存在と考えると、むしろ「自然の一部」と考える事も可能で、自然を「相対するもの」と捉える事は一種の「自意識過剰」とも言えるでしょう。
逆に考えると、この「我思う故に我あり=自意識」の存在こそが、人間及びその手による行いと、その他の生命や現象を分ける基準と言えます。
その自意識下において「己が誕生したプロセス」は、様々な価値観に大きな影響を与えます。
日本の神話における天地開闢では「混沌」、つまりあらゆる存在がごちゃごちゃになっている中から、アメノミナカヌシなどのカミも生まれるので、カミと人間、そしてその他のあらゆる存在は、同じ起源を持ち、なだらかに連なった存在であると考えられます。
一方、旧約聖書の天地創造では、ゴッドが天と地という舞台を作った上で「光あれ」と照明をつけて世界をスタートさせるので、ゴッドの完全なるプロデュースの下に、満を持してプロデューサー(ゴッド)が自分の姿に似せたファーストニンゲン「アダム」が作られるので、存在としての区分けがあらかじめクッキリしています。
個人的には、元素や物理学的な法則などの結実として「生命」が生まれるという科学的世界観は、混沌から全てが生まれる日本神話の方が相性が良いと感じます。
一方、人間そのものも意識的な設計により造られたという世界観は合理的思考につながりやすく、良くも悪くも大規模なプロジェクトを効率よく進めるのには適しています。
「SDGs」(持続可能な開発目標)という語などは、まさにこの合理性を持って持続性を保っていくためのスローガンなのでしょう。
合理的価値観には、一見して異論の余地が無いように見える「正しさ」が生まれやすい一方、寛容さが排除されやすいという一面も存在します。
社会が一定の規模に達すると、合理性が有効に働く場面が増えるので、それは(例えば頭痛時の鎮痛剤のように)無条件で素晴らしいものに見えがちです。
しかし、元々「区分け」が曖昧な価値観で回っていた社会に「劇薬」としての合理性が持ち込まれると、必要以上に過剰な作用をもたらす事が多々あります。
例えば「コロナ禍」の日本において、「感染対策」や「ワクチン」といった、本来は合理に則った存在であるはずのツールが、全くもって不合理、いっそ不条理とも呼べるレベルで社会を壊すほどに濫用されたのが好例です。
テクノロジー万能論も、極端な自然志向も、根本にあるのは合理的価値観であり、こと日本においては、そのまま持ち込むと碌でもない極端な作用に繋がってしまう危険性を持っています。
自然とテクノロジーに限らず、「共生」のためには(思想を合理的にパッケージ化したものである)イデオロギー的な部分ではなく、生活的な足場を出発点とした価値判断を、もっとも重視すべきと言えるでしょう。